ー 第A章 ー
その日
Aは朝からイライラしていた
Aは同棲していた元カレから
別れて半年たつ今でもまだ
しつこく言い寄られていた
そして
なぜか元カレとの別れを知った
以前からなれなれしかった
職場の上司から
たびたび言い寄られるようになっていた
その男は妻がいる身にもかかわらず
小さな会社という狭い世界の中だけで
ほんの少しだけ男前なのをいいことに
同じ職場の女たちとの
不倫の噂が絶えないような
最低の女ったらしだ
人の噂は怖い——
Aの別れ話も噂になっていたのだろう……
その上
Aの部屋から
元カレが出て行ったことを知った
同じマンションに住む
時折挨拶を交わすだけだった
斜め向かいの部屋の男から
たびたび誘いを受けるようになっていた
今朝も出勤時に廊下に出たところ
待っていたかのように現れたその男から
食事に誘われた
ご近所ということもあり
無下に扱うこともできず
ひきつった笑顔で
仕事が忙しいと言い訳し
何とか丁重に断ったが……
いつまでこんなことが続くのかと
引っ越しを考え始めるほどに
もうウンザリしていた……
しかも
そのしつこい男のせいで
出勤時間がギリギリになってしまったことに
どうしようもないほどの
怒りが込み上げてきて
泣き叫びたくなるほどイライラしていた
何とかその激しい怒りを抑えようと……
運転しながら深呼吸を繰り返す
自分自身の悪しき感情と戦いながらも
あわただしい朝の貴重な時間を
少しでも取り戻そうと——
土地を知る者たちが抜け道として利用する
川沿いの緩やかなカーブの続く道を
車で走り抜けようと急いだ
朝の通勤時にその道を通る時には
必ずと言っていいほどよく見かける
ステッキを持って散歩している
優しいほほえみの白髪の紳士の姿が
今朝もまたAの目に入ってきた——
そしてまた
Aと同じように
優しいほほえみの白髪紳士の目にも
Aの姿が入ってきた——
その瞬間
優しいほほえみの白髪紳士は
豹変したかのように
Aの方に向かって
ステッキを持ったまま
まるで子供が飛び跳ねるかのように
大きく両手を振って
彼ができうる最大限のアピールをしてきた——
その行動を見たAは
こんな紳士みたいな人までが……と
衝撃を受け
男なんてみんな同じなのかという
怒りにも似た激しい落胆の感情に襲われた——
その次の瞬間
Aの視界に
ハッとするような光景が飛び込んできた
それは
——スピード違反を取り締まる
パトカーと警察官たちの姿だった——
Aは
先ほど受けた衝撃よりも
さらに大きな衝撃を受けた
自分自身の悪しき感情に……
その抜け道は
スピード違反の取り締まりが
頻繁にされている場所で
多くの者たちがそこで止められ
違反切符を切られていると知られていた
もちろん
Aもその状況を
何度も目撃していた
あの……
あの優しいほほえみの白髪紳士は
明らかにスピードを出している車に気づいて
彼の優しさからとっさに
普段の彼とはまるで別人のような
あんな激しい行動をとってくれたのだった
そのすべてを理解したAは
彼に対して
心から申し訳ない気持ちになり
スピードダウンした
走る車のハンドルを握り続けながら
——ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ……
本当にゴメンナサイ——と
心から申し訳ない気持ちで謝り続けた……
Aの自分自身の愚かさに対する恥と反省は
受けた衝撃の分だけ大きかった
出社時刻にはギリギリ間に合った——
だがその日Aは
全く仕事に集中できなかった……
トイレの洗面台の鏡に映った自分の姿を
マジマジと見つめた
しっかりと塗り重ねられた
マスカラとファンデーション
綺麗に整えた染めた茶色い髪
品のいいピンク色に塗った爪
流行りの服……
すべてが色褪せて見えた……
人気の男性社員に愛想笑いをして
気を引こうとしている
着飾った女性社員たちの様子を見ながら
自分も彼女たちと
何も変わらないのだということに気づく……
そうして
軽蔑している不倫上司に対してすら
愛想笑いしていた自分にも気づく……
反射的にしてしまうほどに
すっかり身についてしまった
着飾った自分のその曖昧な愛想笑い——
マンションの斜め前の部屋の男にも
しつこい元カレにまでも
無意識のうちにしていたのだろう……
その日Aは
断る勇気がないために
惰性でしているだけの意味のない残業を
ハッキリと断った
車に乗り込み
深く一呼吸してから——
いつもとは違う方向へと車を走らせた
それから
元カレと同棲してからは
ほとんど帰っていなかった実家へと向かった
久しぶりに娘の顔を見て
普段は厳しい両親も
めずらしく笑顔で迎えてくれた
夕食の間もなかなか言い出せなかった言葉を
帰る間際になってやっと伝えることができた
暫くの間だけ
実家に住ませてほしい——と
心の中では土下座する気持ちで
深く深く頭を下げて頼みこんだ
めずらしくAの意志の強さを感じた両親は
普段とは違いそこまで真剣ならば……と
余計なことは聞かずに了承してくれた
29歳のAにとって
もう時間の余裕はなかった——
❤︎
翌日——
会社に退職したいと伝えた
数日後——
憧れだけで行動することのなかった
ワーキングホリデー・ビザの申請をした
数ヶ月後——
必要としないもの全てを人に譲って
マンションから実家へと戻った
半年後——
——Aは空港にいた——
椅子に座って搭乗ゲートの方を見つめながら
暖かいブラックコーヒーを片手に
2粒のチョコレートを
ゆっくりと味わって食べていた
その顔には
ファンデーションも
マスカラも塗られていなかった
髪は無造作に一つにくくられているだけだった
飾り気のないスッキリとした表情には
まっすぐな強い意志が感じられた
Aは
——自分自身を変えるために——
日本を旅立った


